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写真が語る城下町彦根~シブヤ写眞館による50年の記録より~ その1-銀座編

2018.2.16

 登り町グリーン通り商店街の路地にたたずむレトロな『シブヤ写眞館』。

 昭和10年(1935)に建てられた洋風建築は時を巻き戻してくれるかのようだ。

 2代目店主だった渋谷博さんは昭和30年代から出張撮影の合間にまちを撮り続けてきた。もう二度と見ることができない光景や真実が明かされている、貴重な一枚1枚には驚きと感動をおぼえる。

 

 昭和30年代というと時代は高度経済成長期、彦根のまちも大きく発展した。以降、城下町を守りつつ、時代に見合うまちづくりをしてきた彦根。これからはどのように活性化していけばいいのか。今の成熟社会における、まちづくりとは。写真からのメッセージの意味をシリーズで考えてみたい。

  銀座商店街「通称:銀座」、と言ってもデパートやブランドの路面店はない。けれど、昔、マルビシ百貨店というのがあったそうだ。昭和に入ると彦根に紡績工場が次々と建設され、人口が増加し、商店街は賑わった。その中心となったのが昭和8年(1933)に開店したマルビシ百貨店。地元商店主の有志を中心とした出資により当時、地方にしては珍しいコンクリート3階、洋風のモダンなデザインで建てられた。

  それを機に川原町と土橋町の商店街が結束、銀座商店街が誕生した。しかし、百貨店は太平洋戦争が始まると一転、軍用工場として使われたという。昭和30年代に閉店、その後、リニューアルされてスーパーマーケットなどが営業されていたが、平成21年(2009)に解体された。現在は駐車場となり、残念ながら跡形を見ることもできない。

マルビシ百貨店の右側に軒先だけだが、写る洋装店は唯一今、洋菓子店としてその姿を今にとどめている。そのアンティークな外観に惹かれた井上さんが購入、洋裁店の間取りを活かして自宅兼店舗として改装し、平成25年(2013)にお店をオープンさせた。
周囲では若い人がそうした改装で開いたお店が少しづつ増えていることから商店街でお店を開きたいと思っていた井上さん。当時の建具やガラス戸を残した内観の、新しくは作りだせない雰囲気。平屋のどこからでも見渡せる中庭や、商店街にもかかわらず一歩入ると静かなところが気に入っているそうだ。冬の寒さは厳しいけれど、夏の暑さはしのぎやすいとも。

季節のお菓子とおやつ gatto
〒522-0088 滋賀県彦根市銀座町1-6
TEL: 0749-22-0058
金曜営業 11:30~16:00(なくなり次第終了)




昭和36年(1961)、全国で初めての防災街区工事がはじまり、銀座商店街が生まれ変わることになる。店舗のほとんどが取り壊されて、道幅が倍ほど広くなり、コンクリートのビルが軒を連ねる近代的な商店街へと姿を変える。一部は2階にもアーケードがあって喫茶店などが営業していたと言う。
今で言うと、横のデパート、屋外ショッピングモールだろうか。湖東からは汽車で、湖西からは今津港から船で買いものに来る人々で賑わったそうだ。

商店街の中央に位置する滋賀銀行彦根支店。大工事で商店街各所にあった西洋様式の建物のほとんどが姿を消したが、残された一つだ。関東大震災(大正12年)直後の大正14年(1925)に耐震耐火を備えたコンクリート3階建で堅牢に、外観は装飾性を施しモダンに建てられた。
もうひとつが、滋賀中央信用金庫銀座支店。銀座商店街を含む4つの商店街が接する「銀座町」の信号に位置する。地元の人には「久佐の辻(きゅうざのつじ)」でなじんでいる交差点のランドマーク。久佐の辻は江戸時代にこの辺りの土地を所有していた彦根藩の御用商人、近藤久左衛門にちなむと伝わる。こちらは大正7年(1918)建築、国の有形登録文化財になっている。当初は明治銀行彦根支店として誕生したが、景気や戦争の影響でさまざまに転用され、一時は医院として使われていたという。
そんな運命を知ると、意思を持たない建築物が現在、残されていることが奇跡に思われる。

2015年現在、景気は良くないと言っても、昭和初期から暮らしは格段に素晴らしく豊かになった。しかし、より便利により安くを求める消費者や車社会に対応できず、量販店やショッピングモールに押されて、銀座をはじめ市内商店街の元気がないのは残念だ。大正、昭和が息づく、他にはない魅力が活かせないだろうか。あの時代のようにたくさんの人が「銀ぶら」しないだろうか。


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記事作成:長束知香子

写真が語る城下町彦根~シブヤ写眞館による50年の記録より~ その2-外堀編
2外堀編

2015.5.17

彦根城は関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康の命で、敗北したとはいえ勢力が残る豊臣家を監視するために重臣の井伊家が築城。以後、戦は行われなかったが、数多くの巧みな防御設備が残されている。その一つが琵琶湖の水を引き入れた三重の堀。天守に近い内堀と中堀は現存するが、外堀はごく一部を残すのみ。護国神社鳥居前の常盤橋が架かる空堀がそうだ。

彦根城は関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康の命で、敗北したとはいえ勢力が残る豊臣家を監視するために重臣の井伊家が築城。以後、戦は行われなかったが、数多くの巧みな防御設備が残されている。その一つが琵琶湖の水を引き入れた三重の堀。天守に近い内堀と中堀は現存するが、外堀はごく一部を残すのみ。護国神社鳥居前の常盤橋が架かる空堀がそうだ。

なぜ、外堀だけが残っていないのか?
明治維新の廃藩置県により明治4年(1971)に彦根藩が廃止されると、外堀の一部が埋め立てられて畑や屋敷地に変わる。それからの自動車普及、バスの運行といった交通事情に合うように昭和9年から10年にかけて現在の銀座商店街あたりにあった外堀を埋めて昭和新道が建設された。
そして、戦前、彦根でマラリアが流行する。マラリア原虫の感染により高熱・吐き気などの症状が現れ、死にいたることもある伝染病。彦根では「おこり」と呼ばれ、昭和23年(1948)に873人の患者を数えた。翌年、市は占領軍近畿地区軍政部の勧告を受けてマラリア予防条例を制定。原虫を人の血液に媒介するハマダラ蚊の発生を抑える策の一つとして彦根城の堀の埋め立てを考案、第1次5カ年計画により、まず外堀が埋め立てられた。当時、中学生だった渋谷さんは登下校に渡る外堀の橋からその工事を見ていた。外堀でトンボを採る「とんぼツリ」をしたり、メダカが泳いでいた記憶が残ると言う。

大規模な対策が功を奏し、昭和29年(1954)に患者が0になったことから、工事は途中で中止された。中堀の埋め立ても含まれていた第二次五カ年計画が実施されることはなかったが、文化財保存のため反対する声はあがっていたそうだ。
江戸時代に作成された地図「御城下惣絵図」を見ると、内堀と中堀沿いは石垣だが、外堀沿いは土塁だと思われる。その土塁が残っているところが一箇所だけある。周辺の土地の高低差も痕跡だ。

また、江戸時代には内堀・中堀・外堀それぞれに架けられた橋のそばに堅固な門が設けられており、開門時間が決められていて通行人を監視する目的を持っていたと記録に残る。外堀には7カ所あり、いずれも敵が侵入しにくいように2回直角に曲がらないと通行できないようになっていた。残念ながら門は跡形も残っていないが、道筋が分かる場所に石碑が立つ。

○ 松原口御門跡(松原/松原橋)
江戸時代は4回も直角に曲がらないと城内に入れない堅固なつくりだったが、大正17年(1928)に回転橋が架けられた。回転橋とは琵琶湖から旧港湾へ出入りする観光船などを通すために作業員2人が橋の真ん中にある歯車に棒を差し込んで力一杯ゆっくり90度に回していたというもの。
当然、その間、橋の通行は遮断されて通常は1日2回、観光シーズンになると5回、豪快で悠然とした光景が見られたという。昭和42年(1967)に新しい港湾ができ、車の通行量が増えたこともあり固定橋に架け替えられた。

こうして外堀は時代の必要性に応じて徐々に姿を消したが、水路、空堀、高低差のある地形が歴史を語る。もし外堀が残っていたら…高い歴史的文化価値によりまちはもっと活気づいているだろうか。反対に交通の不便などから現在ほど潤っていないだろうか。
現実的に埋め立ては当時の人々の暮らしを守るための選択だった。また、埋め立てられたからこそ、その痕跡をたどる楽しみがあるという歴史ファンは少なくない。

ひととき江戸時代へタイムスリップできる生きた歴史の教科書、まちそのものが博物館とも言うべき城下町彦根。それは先人の知恵と努力による他ではつくり出せない魅力でもあり遺産なのである。

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記事作成:長束知香子
協力:まち遺産ネットひこね
参考文献:新修彦根市史第10巻景観編(彦根市2011年)、彦根城外堀マップ前編・後編(まち遺産ネットひこね2012年)

写真が語る城下町彦根~シブヤ写眞館による50年の記録より~ その3-中央商店街編
3中央商店街

2016.7.19

中央商店街のある中央町、江戸時代は中山道と彦根城をつなぐ中心に位置した物流拠点だった。道幅は三間半(約6.3m)、南北に御門を構えて人々と物資の出入りを厳しく制限しながら、公用の荷物を運ぶために宿場町のような役割を担い、伝馬町(てんまちょう)・通り町と呼ばれた。

普通の宿場町と異なり、参勤交代の大名や旅行者のための宿泊施設(本陣、旅籠)はなかったが、幕府から公式に中山道の支駅と位置づけられ、町の中央には問屋場(といやば)と高札場(こうさつじょう)が置かれた。問屋場とは街道の宿場で人馬の※継ぎ立て業務を行うところで、伝馬町には馬25疋、人足25人が待機しており、次の宿場町の鳥居本(北)や高宮(南)まで幕府や藩の荷物を運んだ。その賃金より高額で商人などの荷物も運んだ。

また、高札場(こうさつじょう)はキリシタン禁制など庶民に対する幕府の方針を掲げた場所で、荷物を運ぶ駄賃も示されていたという。毎日多くの人が行き交った通りは、明治から昭和までは一番町と名を変えて、その賑わいを引き継ぎ、専門店が軒を並べる彦根の繁華街の一つとなった。
※宿駅ごとに人馬を新しく変えて雇ったこと



昭和10年(1935)、古くからの繁華街を残しながら城下町に幹線となるべき街路をつくろうとする都市計画法が施行され始めた。計画は順番に進められ、第5期にとりかかられたのが昭和48年(1973)から昭和58年(1983)にかけての中央商店街。車1台が通れる道幅から、車が対向できる幅16メートルへ広げられた。シブヤ写眞館に残る、昭和40年(1965)~55年(1980)の中央商店街の写真はその工事の前後を見せてくれる。



■昭和40年(1965)  
拡幅工事が始まる8年前。毎月9の日は商店街の定休日(9日・19日・29日)で、呉服店や時計店が写っている。現在の『滋賀中央信用金庫』あたり。

■昭和51年(1976)
左の建物は現在の『りそな銀行』アーチの文字は中央街になっている。手前の道路は拡幅が終わっているようだ。

昭和28年(1953)創業の老舗和菓子店『菓心おおすが』は近代的なビルになり、前の道路は拡幅されている。現在もそのビルを維持しながら今風の和モダンな店構えで営業している

『栗田スポーツ店』元は橋本屋という饅頭屋で、その転身は高度成長期後の余暇を楽しむようになった時代のニーズだろう。この辺りに「高札場」があり、跡地を示す石碑が立っている。渋谷さんには冬の通園途中、橋本屋の工場の熱が伝わる外壁で温まっていた記憶が残る。当時の幼児は保護者が引率することなく各自で自由な道順で幼稚園に通い、渋谷さんは毎日、靴屋や湯葉店などのお店に寄り道しては仕事をよく見ていたそうだ。今では考えられないが、たくましく、しぜんと職場見学ができていたのだなと思う。

『近江牛乃老舗藤井』とその左の『料亭さわだ』は現在も同じ場所で営業している。

■昭和55年(1980)
『玉屋眼鏡店』あたりから向こうは拡幅されている。



近年、車の通行量はあるものの中央商店街も下りたままのシャッターが目立っていたが、2013年からその空店舗を活用した新しい店が点々とオープンしている。これまで商店街を訪れたことの無かった地元の人、遠方からわざわざ目当てに来る人、お店をはしごする人も。各店の新規性や専門性、独自センスに質の高い商品やサービスが魅力的だ。商店街としてはまだまだ昭和期ほど賑わっていないが、当時とは異なるこれからの商店街づくりに期待したい。

The Good Luck Store
元は薬局だった店舗を彦根商工会議所が展開する空店舗活性事業「チャレンジショップひこね」第26弾としてオープン。器を中心とした日用品など丁寧に作られたモノを集めたセレクトショップでお気に入りやプレゼントが見つかりそう。

滋賀県彦根市中央町2-30
TEL: 0749-20-9529
11:00-19:00
休業日はカレンダー↓
http://thegoodluckstore-shop.com/

半月舍
女性2人が切り盛りする古本屋、決して広くない店内にさまざまなジャンルの書籍がぎっしり。面白い雑貨や美味しいモノもあってワクワク感満載。デザインの仕事も請け負い、古本とデザイン、スタッフ2人、人と人との出会いは半分づつ、が店名の由来。

滋賀県彦根市中央町2-29
TEL: 0749-22-0058

水・木曜休(臨時休業有) 12:00~19:00
http://hangetsusha.com

&Anne
『菓心おおすが』のオーナーが商店街に賑わいを、と隣接するビルの空店舗をリノベーション。洋菓子店と書店と展示室に並ぶ健やかな暮らしをテーマに選ばれた本と文具、日用品、そして美味しいお菓子に感性が磨かれるよう。

滋賀県彦根市中央町4-35
TEL: 0749-22-5288
水・木曜休10:30~18:00
http://www.and-anne.com/

.5 cafe  
滋賀県初の自転車店とレンタサイクルを併せ持つサイクルカフェ。店内に自転車を持ち込んでゆっくりカフェタイムを過ごすことができる。自転車関連の書籍や雑誌、カタログなども充実、おもしろい自転車も展示一部は試乗ok。

滋賀県彦根市中央町7-40
TEL: 0749-26-1463
9:00~18:00

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記事作成:長束知香子

参考文献:新修彦根市史第10巻景観編(彦根市2011年)
ひこね伝馬町・川原町マップ(まち遺産ネットひこね2014年)

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